月日は流れ、遠いところまで来れば来るほどに、なぜだろう、不思議と言葉はリアルさを増してくる。きっと、人はそんなに忘れないんだ。思い出せなくなるだけで。
リマインド。僕の記憶が確かならば、彼女はいわゆるリケジョで、関西の大学の薬理学に在籍していた。普段は白衣を着て、薬の研究をしているらしい。フラスコと縁なしメガネが似合いそうな、真面目な女の子だ。きっと白衣の下に着ているのはモノトーンのタートルネックで、その上から細いネックレスをつけたりするのだろう。タートルネックの上からネックレスを付けるのは、それを不意に脱ぐタイミングが存在することをあらかじめ想定していない。しかしそんな彼女が、僕と会うときは少し違った。艶っぽい黒髪のボブに、身体のラインがわかるグレーのニットワンピ、黒のタイツにパンプスだった。眼鏡は外してコンタクトにしている。動機がわかりやすい。〝今夜、あなたと過ごすことはあらかじめ決めている〟。表層のあざとさにそう書いてあるようだった。そういうところ、嫌いじゃない。
繰り返しになるが、僕達は夜の22時15分に渋谷駅で待ち合わせた。はじめましてが終電間際だ。つまり、彼女は来る前から確信犯だった。遠方からにも関わらず、その日のホテルすら取らずにやって来た。その上、彼女は会う直前にひとりで “景気づけ” の焼酎を飲んでいたという。お酒が入らないと、てんで駄目なところ。やっぱり嫌いじゃない。
モヤイ像の前で落ち合った後は、一緒に雨の渋谷を歩いて、宇田川町にある夜のカフェで酒を飲み直した。カフェには煙草の煙が漂っている。何を話したかは、まるで覚えていないーーー。あの日、一線を越えぬまま店を何件かハシゴした後、僕達は道玄坂のホテルに駆け落ちた。実験済みの薬の化学反応のように見慣れたものだった。ホテルでのひと時は、どちらかというと感傷的なものだったように思う。詳しいことは覚えていないが、初めて会った日にセックスをした。詳しくは覚えていない。ラブホテルの看板だけは鮮明に覚えている。記憶というものは、どうでもいい情景だけを焼きつけて、肝心なときに何の役にも立たないのだ。
ただ、微かに覚えている。明くる日の朝、僕達は宮益坂で別れた。しかし彼女は程なくして連絡してきた。その日に「もう一度会いたい」と言い出した。これは僕にとっては想定外のことだった。たった今、一夜を過ごしたのに?おそらく2泊3日の日程で東京へ来ていたのだろう。拘泥、それは背中にしがみ付きたいけれど、控えめな文面だった。そういう正直なところも、やっぱり嫌いじゃない。
二度目の時は、彼女は驚くほど素直だった。分かりきった騙し絵のように僕達は再会し、すぐさまホテルに向かった。そして、二日目の夜はここに書くのを憚られるほどに———僕達は何度も何度も繰り返した。そこは沼だった。彼女がソファーの下に跪き、僕を上目で眺めているシーン。跨って揺れる彼女越しに、僕が天井を眺めているシーン。乱れているのに、恐ろしく俯瞰している。本能などという言葉ではとても表せない。まるでお酒が入っていない方が彼女は赤く酔っているかのように、その時に溺れていた。そして気が遠くなるような二日目の夜が終わった。今度こそ演じきり、燃えつくし、そして幕を閉じた。そんな気がした。それはきっともう、この先僕達が会うことはないだろう、と肌でわかっていたからかもしれない。
あえて自白するならば、二度会うことは美しくない。そう、確かに僕達は決して美しくなどなかった。彼女は人妻だった。それでも彼女は僕に拘泥した。とても罪深い生き物だ。彼女は僕を利用した。そして僕も彼女を利用した。そして最後はあっさりとどこかで糸がプツリと切れてしまった。ゲームはおあいこで、しかし彼女はノーダメージ。結局のところ、男が女を傷つけることなんてできないのだから。彼女のように僕もずるくいられたらどんなに楽だろう?ただ、彼女の側にもまた、ある種の混沌があったのかもしれない。それは僕にはわからない。お互いにわからないことばかり、だからこそ知りたくて交わるのだろう。その代償に、消えない痕がしっかりと残る。どれだけの夜を経ても、背中にはしっかり十字架が刻まれる。そしてジワジワと僕は思い知る。これは “心が傷ついた状態” なのだ、と。
ほら。きっと、人はそんなに忘れないんだ。思い出せなくなるだけで。